たい焼きは今川焼(大判焼き)から派生した食べ物であるとされています。たい焼きとしての発祥については、明治時代に鋳物の方を使って作られたとされる説があり、明治時代末期の文学作品や著述、新聞記事などには、すでに「鯛焼」との記述が散見されています。
発祥店に関しては、1909年に創業した麻布十番にある「浪花家」の考案説が存在しているが、それ以前から営業していた鯛焼屋が存在することを示唆する新聞記事も見られます。
また三重県津市大門にあった「日の出屋食堂」が発祥店であるとの説が存在したが、日の出屋食堂がたい焼きの販売を始めたのは第二次世界大戦後であることが判明しているそうです。
今川焼が史料に初めて登場するのは、安永6年(1777年)に記された「富貴地座位」江戸名物菓子之部に登場する「今川やき那須屋弥平本所」であります。どのような菓子であったかは不確かであったそうな・・
現在の今川焼としての姿が確認できるのは、幕末の風俗を描いた清水晴風の「街の姿」である。「街の姿」の中では、6つのくぼみがある小さな鉄板で、今川焼が焼かれており、2つで4文だったそうな。
大阪生まれの神戸清次郎が東京でお店を開きました。(現・浪花家総本店)
ところが、清次郎のお店では、すでに広く知られた今川焼の人気があまりなく、売り上げが伸び悩んでいました。そこで今川焼をベースに考案したのが、縁起物として日本人に親しまれている鯛の形をした今川焼、「たい焼き」です。これが瞬く間に人気となり、全国へ広がっていきました。